動物との距離感

近いというかなんというか

 林学出身の後輩が日光白根に行きましょうというので向かったものの、あいにくの梅雨空で。じゃ、戦場ヶ原を歩こうかというと今度は昨年の豪雨のせいか戦場ヶ原の木道が壊れていて通行止め。
 小田代ヶ原にコース変更をして、樹木を愛でつつ歩いていると林学出身者なので、当然シカの話題に。

 後輩は林業を守る立場からシカは害獣だと言う。それは林業家から見たら正しい話で、なにしろ彼らはスギやヒノキの幼木を環状除皮してせっかく植えた木を枯らしてしまう。「なんだそんなことか」ではない。林業家にとっては木は財産で、育てるのに60年かかる。これは大変なことなのだ。

樹皮剥ぎについて「なんでそんなことを」と後輩が言うので、「食うもん食いつくして他に食うもんがないから、下あごの歯が削れてでも樹皮を剥ぐんだ」と教えたところ少したじろぎ「動物は一般に栄養状態が悪いと数が増えますね」と言った。「そうだね」と私も言った。「彼らはもともと草原の動物なんだけれど、彼らが住む場所は人が家を建てちゃった。だから、本来住むべきじゃないこんな高原、山奥に居るんだね」

 それから、小田代ヶ原を囲んでいるシカ除けのネットに行き会った。それは昔見た弱弱しいものではなくて、人間でもこれは絶対に突破できないとわかる強靭なネットだった。歯でも角でも破れないし、ナイフでも容易には切れないだろう。無理に突破しようとすればそのまま絡めとられてしまう。どうやらメンテナンス性の面も克服しつつあるようだ。

 人にとって不都合なことをする生物は害獣になる。クマもサルもシカもある人たちには害獣で、ある人たちには無関係で、ある人たちには守りたい仲間になる。

 この何年か日光に通っているが、日光の人たちは野生生物たちとうまく付き合おうと頑張っているように思う。面倒でもシカ除けネットを張り、きちんと駆除の基準を守って、うまくやろうとしている。それはこの自然は彼ら野生生物あってこそであるし、それが財産であるという感性の賜物だろう。そういうことが日光の自然を歩く中で伝わってくる。日光の人たちが長い時間をかけて作ってきた一つの答えだ。

 さて、「ライチョウはそういうややこしいことがない、と思ったんだ」と恩師は言った。

 ライチョウを害獣とみなす人はあまりいない(高山植物を食うから嫌い、と言う人にも会ったけれども、それはその人の感性であるし、事実ライチョウは高山植物を食い荒らしている)。むしろ愛でる人のほうが多い。これが問題だった。

 かわいいから、好きだから、希少だから守る。パンダ、コアラはかわいい。ライチョウもかわいい。いや、動機としては別に構わない。

(かわいくない絶滅危惧種はどうなんだろう。ぬるぬるにゅるにゅる系ならオオサンショウウオはどうなのか。「おたまじゃくしの101ちゃん」(かこ さとし 偕成社)のタガメはどこに行ったのか)

 かわいいと思う気持ちは大切である。それはヒトの根源的なものだ。

 かつて私は足の折れた子猫を拾った。貸家じゃ飼えないので組合の事務所に押し込んで必要なものを買いそろえ、折れた足の治療費を払い、結構なお金をかけた挙句、子猫は組合のお姉さんにもらわれていった。足はなんだか曲がったままくっついてしまったけれど、とてもかわいがられている。

 なぜ私はこの子猫を拾うのに、ライチョウの雛を拾ったりはしないのか真剣に考えた。法律も調べ、昔大学で習ったことも思い出して整理した。結果、日本において動物は2種類に分けられ、一つは犬猫ウサギなどの「愛玩動物」そして「野生動物」がそれぞれ別の法律で規定されている、というあたりで納得がいった。

 いわゆる動物愛護法では、愛すべき動物が規定される。犬、猫、牛、馬、豚、綿羊、ヤギ、ウサギ、ニワトリ、家鳩、アヒル。これら11種は野生化していようが何だろうがこれらの動物にみだりに危害を加えることはヒトとしてどうかしているということで処罰される。また、人が占有している哺乳類、鳥類、爬虫類も同じく保護される。(ということは、ヤモリを飼っていたら保護されるけど、飼っているイモリを勝手に黒焼きにされても文句が言えない(法律上の話なので、個人的に殴られる可能性はある))。

 そしていわゆる「鳥獣保護管理法」では、人が野生鳥獣をみだりに狩らないように制限を加えている。何しろ人間は銃を以て動物を狩り、ニホンオオカミを絶滅に追い込んだ張本人である。そこまででもないにしろ、九州ではツキノワグマが絶滅してしまったというぐらいの悪辣な生物なので、そんなことしちゃいかんというのが趣旨である。

 11種の生物と人の占有下にない日本の無数の野生生物を守るのは鳥獣保護管理法である。いいのかそれでと疑問を呈する人もいるし、そうでない人もいる。

 子猫を拾うのは動物愛護法に基づくものである。ニャアニャア痛みを訴えている子猫を保護しないことは罪である。ライチョウの雛を拾わないのは鳥獣保護管理法に基づくものである。みだりに野生生物に触れることは罪になる。それで私は子猫を拾ってライチョウの雛は触れなかったのである。だって罪なんだもん。スズメを保護して怒られた芸能人がいるぐらいである。

 私個人の意見としては、野生生物に対する私たちの距離感という意味で、鳥獣保護管理法は優れているように思う。なにしろえこひいきが一切ない。ライチョウでもオオサンショウウオでもみだりに狩ってはいけない、手出ししてはいけない。ただそれだけである。

 しかし、野生生物に対してかわいいからというバイアスが加わると途端に厄介である。

 ライチョウならサルを、猛禽を悪者にし、そして人間がそれを助けるヒーローに、という、うすら寒いストーリーを誰かが描いてそれをメディアに流せばどうだろう。

 生物多様性は一種のみで達成されるものではない。食う食われるの関係を通じた「系(システム)」が私たちが持続可能な発展をするのに必須なのであって、ライチョウだけ~パンダだけ~という保護の在り方は時代遅れである。ここ30年の生態学をないがしろにしている。

 ライチョウを保護したいなら、ライチョウを支える高山生態系を保護しなさい。高山生態系は気候と深くかかわっているのだから、私たちが高山生態系を保護したいならば、私たちが地球温暖化に寄与してはならない、すなわち、一人一人ができることからコツコツと温暖化対策をすることが、真にライチョウ保護と言える。そしてそれはライチョウだけではなくてもっともっとたくさんの、数億の生物種を救うのだ。

 メディアも環境省もこのストーリーの方に乗っかるべきではないのか。

2020年8月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 黒五